「好き」の対義語は「無関心」らしいよ

無関心な人びと〈上〉 (岩波文庫)

無関心な人びと〈上〉 (岩波文庫)

女の一生 (集英社文庫)
大学の教職関係の授業の課題に「天才を一人とりあげ、それについて論ぜよ」というレポートがありました。で、それっぽいものということで(フランス文学を専攻しているわけでもないのに)『女の一生』を読んでモーパッサンを取り上げたのですが、読み終わった後の感想は「なんか昼メロみたいだなあ」というものでした(そのあとレポートに何を書いたのか覚えてねえです)。うろ覚え(間違っていてもカンベンしてください)ですが、あらすじは、ある貴族の娘が結婚するけれども、そいつがとんでもないプレーボーイで浮気されまくったり、なんだかんだで妊娠するも死産(じゃないかもしれない)だったり、旦那が事故死するけれども、自我に目覚めて力強く生きていく、というものでした。おそらく、この作品は古典の範疇に入るのでしょうが、古典に抱かれがちな認識として「古臭い」ということがあると思います。『女の一生』もあらすじ(当たっていると仮定して)を見る限りでは、特に目新しいモチーフではないと思います。ただ、違う見方をすれば、モーパッサンの時代(あるいはそれ以前)から現代に至るまでの人間生活における普遍性を帯びている(男は浮気をするものだとか?)からこそ、古典と呼ばれる存在として現代に在ると言える気がします。シェークスピアが今も読まれ、演じられているのも人間の普遍性(恋は盲目的なものであるとか? 若い2人は周囲に反対されればされるほど燃え上がるものとか?)がそこに描かれているからではないでしょうか。古典古典とは言うけれども、もしかしたらその当時は斬新なもので、新しいものの見方を提供したから、今まであるのかもしれませんね。

さて『無関心な人びと』(画像ねえや)ですけれども、これは古典の範疇でしょうか? (たぶん)没落貴族で、自分の愛人の歓心をつなぎとめようと汲々としている未亡人、今の生活に嫌気がさし、母親の愛人に抱かれることで新たな人生が開かれると思っているその娘、娘もろとも没落貴族の資産を手に入れようと策をめぐらせている愛人、そうした状況を冷ややかに見つめ、自分自身の人生にも情熱が持てずにいる未亡人の息子、その息子を誘惑する未亡人の友人・・・。いかにもありそうじゃないですか。で、結局愛人と娘は関係を持ってしまうのですが、その結末はまあ、現実的です。でも、こんなのを発禁にするなんてファシスト政権も度量が狭いというかなんちゅうか。。。て、書いているうちに何を書こうか忘れてしまいました。



あ、そうそう、今ちまたで噂の『冷凍みかん』って、なんか吉澤ひとみと他数名が歌っているのかと思ったのですが、全然違いましたね。冷凍みかんなんて、給食で食べて以来、食べてないなあ・・・。冷凍メロンなら数年前に食べたことがある。うまかった(´ー`)

冷凍みかん

冷凍みかん